ボカロで考えている事①

こんにちはイエロー(mymyonpu)です。

話題ダブりごめんなさい。vocaloidについて話させて頂きます。

自分にとってボカロは本当に大きいテーマなので定期的に語り散らかせてもらいます。

 

私が思うボカロの良さは沢山ありますが、今回はhueniumの記事に触発されて「ボカロに命が無い事」について、自分の考えている事を書きたいと思います。

 

ボカロにより曲の自由度が上がるんじゃないかと最近考えています。

人に歌を披露するとき、「自分の声が良く聴こえる」ように意識して歌う事は普通の事だと思いますが、

この意識と自我が過剰に見え隠れしていると音楽全体を聴くと邪魔に感じてしまう時があります。

 

また曲に対する愛を持って心を込めて歌って、聴き手にびしびし感情を伝える事はとても良い事のように思えますが、

聴いていると「自分は音楽を好き勝手に楽しみたいだけなのにこんなにメッセージを押し付けられても」となるときがあります。

(実際人の心のこもった歌に感動する事は沢山あるし私が人間嫌いなのかと勘違いしないでください)

 

また人間の歌は単純に、音域等の制限で作曲者自身表現したいもの100%の表現が歌で出来ないかもしれません。

つまり人間の歌が入ると曲の自由度が下がると考えています。これは良い事でも悪い事でもあります。

 

ボカロは自我が無く(実際はボカロ調声の際に人間側の自我が隠れているのですが)、

音域と歌い方も自由度が高いので作曲活動の可能性が広がっているのではないかと思います。

聴衆側としても、歌手の自我を押し付けられないまま曲を楽しめます。

歌詞に含まれる作詞者の自我はボカロの陰に潜んでいるため、過激な歌詞でも聴きやすい事もボカロ曲の特徴です。

 

「歌で自由度減るのならインストでええやん」ってなるかもしれません。

実際私は音ゲーのインスト曲聞く事がブームです。音ゲー曲に関してはボカロよりも更に知識は浅いですが、いつか話したいです。

以下の意見は性癖というかそういうのがあるし反対意見が多そうなんですが、

自分はアイドルがかっこよく歌って踊ってるのを見て、

「ある程度指定されたパフォーマンスをキメキメで行う事に対する、偶像としてのちょっと情けなさ」を感じて興奮するんです。他にも理由沢山ありますけど。

 

ここまでボカロの命が無いゆえに曲の自由度が高い事、について書きました。

しかしこれから、ちょっと別視点を加えます。

ボカロは無機物で命がありません。ただ生きてない保証はない気がするんです。

命が無い事で、逆に「ボーカロイドは生きているのではないか」というか、可能性を永遠に持ち続ける妄想を永遠に抱けるんです。

無いものって逆に有るように仮定しちゃう時ありませんか。

 

初音ミクが生きていて意志を持っているような歌は初音ミク達のライブ:マジカルミライで多く聞くことが出来ます。

実際、ライブでは初音ミクが生きているように感じました。

 

以上のように、ボカロについていろんな雑多な事を考えました。

「ボカロにより魅力が更に引き立てられてるなあ」と思う曲をとりあえず3種類並べます。

①人間の自我をボカロフィルターにかけた曲

その中で今回紹介する曲は

くらげP「キライ・キライ・ジガヒダイ !」 

 

自我自我な歌詞がボカロを通せばまろやかになります。

音街ウナが歌っているのですが、すごくタイプな声です。

思春期の幼さを皮肉ってる感じなのでウナのロリ声が似合います。

 

②ボカロが意志を持っていて語りかけるような曲

ボカロPがボカロの意志を勝手に想像して歌わせてるんですけどね!

その中で紹介する曲は

ヤスオ「えれくとりっく・えんじぇう」

 

ミクとマスターの関係をミクの一人称で。ボカロのための曲。

ミクがそこにいる、と感じられる曲です。

 

リンレンカバー

脳溶けるほど可愛い。

 

③自我がどこにあるのかよく分からない曲

ATOLS「ゾンビメイカー」

ボカロが曲を制約しないからこその曲だと思います。

どっかの方向にテンションめっちゃ上がる。

 

まとまりなく書き散らしました。また書きます。